G. P. Putnam's sons
1939
ハードカバー
309
タリア・マッシー事件当時のハワイ駐在海軍提督、スターリングの回想録である。Joseph Kahahawaiを殺害した部下とフォーテスキュー夫人の行動を支持、彼らを保護した。
もともと彼は日系人ら有色人種が多数を占めるハワイに対し懐疑的であり、それは終生変わることはなかった。これが代々の軍人一家であった出自に来るものなのか、かれの経歴からくるものか判断する一つの材料になる。
彼は本書にてハワイにおける日系人のアメリカへの忠誠への疑念を隠さない。とくに二重国籍の問題をあげ、攻撃をしている。具体的に日系人の歴史に名を遺す人物の名を挙げている(pp.234-236)。興味ある方のためにその2名の名前を記しておく。
Wilfred C.Tsukiyama (ウィルフレッド築山)は1927年に日系としては二人目の弁護士となった人物。意欲ある日系の若者の支持を怠らなかった。1933年にはホノルル市の法務官に。戦後には政治家に転身、1949年にはハワイ州議会の上院議長にもなった。1959年にはハワイ州最高裁長官に任命され1965年に引退するまでその任務を全うした。
真珠湾攻撃後、彼はハワイの日系人が白人と同様の忠誠心をもつことを認めさせるべく、以前にもまして海軍当局への批判を公的に行った。軍役をすでに終えていたが再び志願することまでして自ら忠誠心を示そうとした。しかし、すでに45歳。高齢を理由に却下された。(1)
Andy Yamashiro(アンディ・ヤマシロ)は1930年にハワイ準州下院議員に当選。ハワイを「非白人の跋扈する無法地帯」と非難するスターリングに対し、ハワイのことはハワイで育ったローカルが最も理解していると主張、スターリングによるアメリカの政治家による委員会性政治の導入を否定した。(2)
改めてスターリングの書を見ると「New Americans」コンファレンスに招かれたとある。「ニューアメリカン・コンファレンス」は奥村多喜衛親子が日系の意欲ある若者と「ハオレ」の有力者との交流を図るために企画したもので、1927年から1941年まで実施された(3)(注1)。本書によればその時の出席者はジャッド準州知事、ウェルズ将軍等。この時行ったという演説が約5ページにわたって引用されている(pp.236-240)。本書のほかの部分に比べれば表現は柔らかく思えるが、「忠誠心」を強く求めていることは変わらない。
当初、ハワイの地政学的重要性で意気投合していたスターリング提督とジャッド準州知事であったが、マッシー事件での対応、ハワイへの信頼性への意見の相違で衝突、決裂するに至った。これも双方の回想録を読み合わせるべきである。
この衝突は別の機会でもアメリカ全土に示された。
「Liberty」誌は三週にわたってフォーテスキュー夫人の回想禄を連載。
→「The Honolulu Martyrdom ホノルルでの受難」
同じ「Liberty」誌の1939年6月17日号に「CAN WE TRUST HAWAII?」という元スターリング提督の記事が掲載された。
本書に記載されているハワイへの疑念を別のメディアでも表明したのである。
(1)「ハワイ日系パイオニアズ-100の物語-」ハワイ報知社,2012,pp.143-144
(2)物部ひとみ著「戦間期ハワイにおける多民族性と日系人の「位置」-先住ハワイ人との人種関係における一考察―」,立命館言語文化研究,2010-03,pp.163-173
スターリング提督の出自も含め当時のこの事件に対する日系社会の対応に詳しい。
(3)Bryan Niiya編,’Encyclopedia of Japanese American History: An A-To-Z Reference from 1868 to the Presentupdated Edition’,Facts on File,2000,pp.298-299
(注1)吉田亮著「ハワイ日系二世とキリスト教移民教育」に「市民会議」として詳しい記載がある(pp.64-75)。F.アサートン、G.キャッスル、W.ウエスターベルト、R.クック、ジョン・ウォーターハウス、ウォルター・ディリンハムといったそうそうたるメンバーがこのコンファレンスを支援している。また、ホノルル総領事、外務省、渋沢栄一も「有形無形の支援をしていた」(p.113)