Sea of Glory The Epic South Seas Expedition 1838-1842

By | 2017年8月23日
Sea of Glory ブックカバー Sea of Glory
Nathaniel Philbrick
Ethnological expeditions
HarperCollins UK
2005
452

In this "New York Times" Notable Book and bestseller, the National Book Award-winning author of "In the Heart of the Sea" writes about one of the world's most ambitious voyages of discovery-the U.S. Exploring Expedition of 1838-1842 that included six sailing vessels and a crew of hundreds who set out to map the Pacific Ocean.

アメリカの探検航海の歴史に大きな足跡を残したウィルクス探検隊(1838~1842年)の記録。

以下は以前に本書を紹介するために書いた文章。語尾その他の表現を直し、子供の名前、ワシントンでの再会などのエピソードを追加した。本来、翻訳もどきを試みた箇所はそのままになっている。かなり端折っている上に不正確。興味ある方はぜひ原著を手に取ってほしい。


数年前に『復讐する海-捕鯨船エセックス号の悲劇-』という本が話題になった。捕鯨船エセックスは怒れる鯨に襲われ沈没、この悲劇はメルヴィルの『白鯨』のヒントになった史実。『復讐する海』はいわば『白鯨』の後日談で、沈没後の乗組員のすさまじいサバイバルを描いたもの。著者ナサニエル・フィルブリックはマサチューセッツ州ナンタケットの歴史家、今回ご紹介する彼の著書、『SEA of GLORY The Epic South Seas Expedition 1838-1842』も、『白鯨』の材料の一つという。

『復習する海』は映画化された。邦題は『白鯨との闘い』

ただし、本書のテーマは捕鯨ではなく、チャールズ・ウィルクス率いるアメリカの探検航海。イギリスから遅れ19世紀になってからアメリカの関心は太平洋その他の海の向こうに向くようになった。アメリカ合衆国議会の命令のもと、アメリカ海軍に所属していたチャールズ・ウィルクスとその探検隊は太平洋を文字通り駆け巡り膨大な標本を持ち帰る。(ハワイよりずっと南極よりにあるウェーク島のウィルクス島は彼に由来。)

チャールズ・ウィルクスの時に狷介な性格は『白鯨』のエイハブ船長のモデルになったと指摘する研究者も。(彼の調査記録から他の登場人物の参考にしたという記述もあるが、いずれにしても著者の関心はそこからくる)

ウィルクスはもちろんハワイにも立ち寄り、彼はそこでキラウエア火山の調査を行う。浅海はその箇所しか読んでいない。(以下はpp245-254の抜粋した文章中、「現地人」という言葉を頻繁につかっているがうまい訳語を見つけることができなかった。)

彼は調査に必要な資材を持ち歩くための200名に上る土地の人々の手配と指揮にGerrit Juddという宣教師を雇う。(本サイトでは馴染みドクター・ジャッド、Dr.Judd。以降、以降、ジャッドもしくはドクターとする。)

「ウィルクスが彼の宣教師の一年分の給料の数倍を払うと約束したため、ジャッドは自分が特にうやうやしく『コモドール』と呼ぶこのウィルクスを喜ばせるよう意を注いだ。ウィルクスはジャッドが自分のために手配した原始的な輿(こし)に喜び、妻にそれに恭しく乗っている姿さえスケッチに残した。」

その輿(こし)というのが・・・

「4人の現地人によって担がれる二本の棒に乗せられた椅子で、その椅子にはパラソルが備え付けられていた」

そう、メルヴィルが「宣教師の妻が現地人に引かせた車に乗っている」と非難した姿を連想させる(1)。ウィルクスの表現では車が付いていないが、同じような場面を描いた版画が本書に掲載されている。

→図版:「Street view at Honolulu」 From the Narrative of the U.S. Exploring Expedition Volume III (スミソニアン博物館所蔵)

ウィルクスの描写と違い車付きのこの輿はメルヴィルの見たものに近く、しかも乗っているのが宣教師か女性のように見える。

しかし、ウィルクスはこんなことを妻に書き送っている。「ハワイ人たちは自分を『Komakoa:指揮官』、または大酋長のように扱い、使役されることを栄誉と考えている。」

通常はあまりユーモアを解さない彼でさえ、次のような光景を滑稽に思った。その光景とは・・

「彼の後に続くドクター・ジャッドが先導する行列には200人の現地運搬人が続き、そこには彼らの妻や子供、そして義母までが加わっていた。それだけで10人の男性が必要とした振り子時計に加え、高々度に置ける音響実験に用いる小さな大砲、ポータブル・ハウスのためのパネル、雑多な機材、テント、食べ物と水のための莫大な数の箱とヒョウタンを引きずっていた。ヤギと一匹の凶暴な食用牛を含んだ家畜の群れさえあった。」

ウィルクスの目を通したドクター・ジャッドの姿はあまり威厳あるものではない。妻への手紙にこうある。

小さなドクター(ジャッド)は足の悪い馬の上で跳ね上げられていたと思えば、馬を降りたら降りたでわれらのパーティの助手としてもったいぶった態度と余計な口出しで歩みの邪魔をするのだ。私は笑いすぎて涙が出てきた。君もそうだろう。

 

彼らは熱で履いている靴を何足も失いながら、杖の先が燃え出すほど灼熱の溶岩溜まりに近づいていく。旅のガイドはその溶岩のプールが「ほんの数秒であふれ出てくることもある」と警告。近くの溶岩溜まりのへりが落ち込んできたときを潮時にブラックレッジに退いた。

しかし、その後、ドクター・ジャッドは危険なクレータに戻っていく。というのはウィルクスがコレクションの一つとして溶岩のサンプルを望んだからで・・・。

(常にリーダーを喜ばせたがっている)ジャッドはそれにトライしてみると申し出た。そして長い棒に結んだフライパンを一緒に持っていった。灼熱に対する予防処置として、手袋と同様に彼の靴の上に厚手のウールのソックスと皮のサンダルを履いた。

苦労してクレータの南、20から30フィート下に位置する、ウィルクスが『巨大な火の湖』と呼んだくぼみに進んでいく。熱した鉄板のように唾をはじく熱い黒い岩を登っていった。彼の頭上25フィートの高さに溶岩が打ち上げられ火の湖に落ちていくを見た。溶岩溜まりがあふれればたちまち彼は焼け死んでしまう。

極めて賢明なことだが、彼は現地人により高い地面に退くよう命じている。彼らの50フィートほど後を追っていたジャッドは異様な音を聞いたが、恐慌状態に陥って逃げるかわりに彼は詳細を調べに戻っていく。

ウィルクスは書いている。「とその時、瞬く間に激しい上下動とともに尾根がバラバラに壊れていった。そしてぞっとする音ともに熱せられた溶岩が直径15フィート、高さ45フィートに及ぶバラのように吹き上がった。」

ジャッドはそれから逃れるべく走り出したが、目の前には岩だながそびえ両側にも逃げ道が無いことが判った。熱は彼が顔を向けることができないほど激しくなっている。彼の足元の岩は今にも爆発しそうに震えていた。

「彼は自分が死ぬことを覚悟していたが」ウィルクスは書いている。「無駄とは思いつつ彼は目の前の岩を登るために努力した」。

このとき、現地人は全員無事に退避していた。ジャッドの助けを呼ぶ声に答えて戻ったのがその中の一人でジャッドと親しいカルモ(Kalumo)だった。ジャッドはカルモの腕が岩棚越しに伸ばされるを見たが、彼がそれを掴む前にもう一つの溶岩が彼らの上に吹き上がってきた。激しい熱に思わずカルモは腕を引っ込めてしまう。ジャッドは叫んだ。そしてカルモはもう一度手を差し伸べた。今度こそジャッドは彼の手を掴み、岩棚の上に引き上げられた。

ウィルクスは書いている。「かろうじて命永らえたのにも関わらず、ドクター・ジャッドは(溶岩の採取を)止めると言わない。」

かのクレーターは今や泡立つ溶岩でいっぱいだった。現地人の一人にフライパンをしっかりと棒の先に固定させると、クレーターの端に戻ってそれを溶岩に浸した。

「彼がこのようにして獲得したケーキ(まさに焦がしたパウンドケーキにそっくりである)は我々のコレクションに加えられた。」とウィルクは記している。

ジャッドは彼の手首と肘の回り、そしてシャツが肌に触れたところをすべてひどく火傷していた。しかし、彼の火傷はカルマのそれと比べるとなんでもなかった。ウィルクスは書いている。「特に炎にさらされていたカルマの顔は全部水ぶくれで覆われてしまった。」

ウィルクスはジャッドが命を失いかけたクレータの大きさを直径およそ200フィート、深さ35フィートと見積もり、溶岩で満たされるまで12分未満だったとしている。ドクターの英雄的行動をたたえ、ウィルクはこの溶岩湖に『ジャッド・レイク』と名前をつけたという。

浅海はカルモの名誉も気になるのだが、それについての記載は見つからない。

彼らはその後、マウナロア山頂を目指す。寒さに弱い現地人の大部分を帰して再編成したのにも関わらず、最終的にすべての現地人が逃げ出す事態となるが、ウィルクスはむしろ安堵する。寒さに弱い彼らを苦しめていることが判っていたからだ。

この探検行は1840年のこと。ウイルクスは溶岩湖にジャッドの名前を残した。ドクター・ジャッドもこの任務を名誉に思ったのか、あるいはウィルクスの人物に感銘を受けたのか1841年に生まれた四男に彼の名前を貰っている。Allan Wilkes Judd (1841-1875)(2)

また1850年のワシントン訪問時にはウイルクスと再会、パーティで遇されており夫妻と娘に会っている。この時、博物館で採取された「溶岩ケーキ」を見学もしている。(2)

 

このウィルクスの探検旅行について参考となるページ

→図版:Narrative of the U.S. Exploring Expedition 図版スミソニアンのデジタルライブラリ 下の方にハワイ関連の図があります)

→図版:View of crater, Kilauea

→hana houから:Mountain Man

同行の画家Titian Ramsay Peale描くキラウエアの絵を見ることができる。(ウィキペディア)

 

さて、ジョン万次郎が土佐から出港したのは1841年のこと。二日後に嵐に遭遇、鳥島で143日すごした後、捕鯨船「ジョン=ハウランド号」に助けられ、ハワイに。

作家、有明夏夫さんの著作にジョン万次郎の前半生を小説化した「誇るべき物語」(小学館,1993)という作品がある。いくつかあるジョン万次郎の伝記、物語の中では、本書は最もハワイについてページを割いていると浅海は考えている。ジョン万次郎がホィットフィールド船長につれられてドクター・ジャッドに出会うシーンを著者は次のように描いている。

壁際の棚には、黒い溶岩がところせましと並んでいた。

「おや、変わったものを集めていますな・・・」

という意味のことをつぶやき、ホイットフィールド大船頭は棚に寄って、溶岩を手に取った。

「去年、学者の一行がキラウエア火山の調査にやってきましてね。案内したときに持って帰った代物です。」

(中略)

「じゃあ、あなたはこれから地質学者になるおつもりですか?」

大船頭はおどけてきいた。

「いや、これはただ眺めているだけですよ」

いくつかの溶岩を取りだして、ドクター・ジャッドは机の上に置いた。いやに皺の多いやつ、手でこねたのかと思うほど正確な半円をなしたやつ、鋳型で押したみたいに同じ形の瘤を並べたようなやつ・・・実にさまざまである。

「それぞれに個性がありますなあ」

大船頭は感心していた。

「もっとも、危うく死にそうになりましてねえ・・・」

そのあと、ドクター・ジャッドはキラウエア火山の麓から、命からがら逃げ帰ったいきさつを話していたが、万次郎には半分も解せなかった。

本来、引用元のページを記すべきだが、手元になく申し訳ない。

著者有明夏夫さんは本書「誇るべき物語」にて以下のようにも記載している。

ハワイの歴史を追うと「続々と送り込まれた伝道団は単にキリスト教の普及のみを目的とした組織ではなかったことがわかる」が、「彼等(アメリカ人牧師)は信仰や国策に忠実でありつつもなお、漂流民のために献身的に尽力してくれ」たことも確かだ、と。 


思い返してみると、本書に出会う前後からジャッドに対する見方が変わったのだと思う。

(1)メルヴィル著「タイピー」(1846)の第26章。メルヴィルは本書中でハワイや南太平洋における聖職者に厳しい目を向けている。「付記」ではイギリスのポウレット卿による一時的なハワイ奪取について記しておりドクター・ジャッドの名前も挙がっている。ポウレット卿側の視点からこの事件を描いているため一般的なこの事件の見方、あるいはジャッド側からの説明とは大きく異なるものになっている。

(2)HONOLULU Sketches of Life, Social, Political, and Religious, in the Hawaiian Islands, From 1828 to 1861 等による。