電車日誌を語る

投稿者: | 2017年9月25日
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本田緑川
エッセイ
本田緑川
1956/11/3
ペーパーバック 
182
吉田信二

報知新聞記者、編集長であった著者が、長期連載コラムであった「電車日記」の背景を振り返る。

布哇毎日新聞に掲載の記事を主に各種媒体に執筆したものを回想禄のように構成している。

人気コラム「電車日誌」のタイトルの由来から記者時代の思い出を紡ぐ随筆集。本書もハワイ邦字新聞に関心ある者にはたまらない読み物である。

タイトルの「電車」は著者が布哇新報社(1917-1920)に在籍していた時代に電車にのって通勤してきたことに由来するという。ホノルルの歴史を探ればストリートカーの写真を目にするがその時代からの回想。

また、ハワイの日本語学校問題に関心ある者にとって、布哇報知社員で渦中にあった著者の回想はこれも見逃せない。試訴に勝利したとはいえ経営は苦しく、社債を「勝利記念」への寄付に変換してもらうよう交渉するのは「相当に辛かった」という。(p.20)

なるほど「日本語学校勝訴十周年記念誌」に力がこもっているのはその背景もあったのか。

日本語学校勝訴十周年記念誌は、編纂を一手に引き受けた私が電車日誌と共に忘れんとして、忘れることの出来ない思い出の種である。(p.21)

いま出してみるとタブロイド型五百五十五頁の分厚い記念誌である。(p.22)

私も実物を手にしたときは仰天した。上の写真では15cmの定規を右下に添えている。大きくてスキャナーに乗らないばかりか厚さを計ると3センチを超える。各島各地域から当時の回想を集めて壮観。読み応えがある。ページの約半分を広告が占めるが上記の事情を知ると納得する。広告自体もほぼ地域毎、業種毎に整理されており、根気強く眺めれば人名録としても使えるのではないか。(もちろん日布時事とハワイを二分しての問題だったから網羅はしていないと思うが)

これだけの大部のもの、取材から版組まで通常の業務と並行して進めたというのだから頭が下がる。

日本語学校問題を背景とした「米人少年を訪ねて」と題する記事に特に関心をもった。ワイキキ日本語学校に外人の子供が通っていたのだそうだ。ひところは6人の外人生徒がいたが、問題が大きくなると三人に減じたという。その中で特に熱心だったのがアドバタイザー紙主筆アーウィン氏の息子だったという。

夫人に取材したところ

息子も新聞記者になりたいと云っておるので、記者になるなら外国語を幾つでも知って置く必要がある。自分が最も興味が持っているのは日本の将来だから、日本語を習わして見たい、と云うのがアーウィン氏の意見だったそうである。

排日主筆だと思っていたアーウィン氏の意外な一面に驚いたと記している。(「米人少年を訪ねて」(p.74-75)

調べるとEdward P.Irwinという人物が相当する。

George Chaplin著「Presstime in Paradise: The Life and Times of The Honolulu Advertiser, 1856-1995」(1)を参照すると、本土アイオア生まれのEdward P.Irwinは確かに排日、人種差別的思想の持主であり、この書で引用される「Paradise of the Pacific」の寄稿を読むと東洋人のアメリカナイズを疑問視、異人種間の結婚を「精神的、肉体的、道徳的な欠陥」を作り出すものとしている。(p.153-154)

このアーウィン氏はマッシー事件でグレース・フォーテスキュー夫人がハワイ滞在時にその支持者、かつ近しい友人になったという。そのとき発刊していたHonolulu Timesにて彼女やスターリング提督を支持する記事、社説を掲載、世論形成に一役買っている。Davide E.Stannardは前掲著から引用して彼がRacistと呼ばれていたことを紹介、夫人はHawaiianだったが、それにも関わらずその評価は正しかったと記述している。(2)

著者本田緑川さんが驚くのも無理はなく、これらの記述を読むかぎり息子を日本語学校に通わせる父親には思えない。筆禍と喧嘩を繰り返し起こす荒っぽい人物を思い描く。「Presstime in Paradise」で着目したいのが先の夫人の名前だ。本田緑川さんが取材した穏やかな「四十才近い夫人」はおそらくBernice Piilani Cookさん。学校の教師の他に新聞に連載を持っており、「I KNEW QUEEN LILIUOKALANI 」「In Menehune land」という著書がある。特に記載はないのだが恐らくハワイ人と白人の混血と推測する。それだけに先の異人種間の結婚に対するアーウィンの態度はどうしたことだろう。

 

自分はBernice Piilani Cookさんの著書を持たないので、彼女の考えを得ることはできないが、「I KNEW QUEEN LILIUOKALANI」の前書きの引用がある。

→「Fictional History: Forword “I knew Queen Liliuokalani” by Bernice Piilani (Cook) Irwin

彼女の母親はリリウオカラニ女王と親しく、自身、若い時に女王と「友人関係」だったという。調べきれていないが、Mary Duncan Cookという母親が白人と結婚したのかもしれない。

(注)後になって以下にリンクする記事を見つけた。ご主人はなんとキャプテン・クックの子孫なのだそう。クック家は早くに砂糖産業を始めたうちの一つ(マウイのハナ・プランテーション)。彼女はカメハメハ三世の治世に生まれ幼少時代からリリウオカラニ女王と親しくその友情は今(1914年)も続いているとある。ハワイの砂糖産業の本を探せばもっと情報が得られるだろう。

Mary Piilani Duncan Cook (Findagrave.com)

(王朝転覆時のアメリカ勢力と距離を置いた記述も説明がつく)。この前書きではハワイ王朝転覆の時代にハワイ在住のアメリカ人との衝突は有ったが、現在(この書刊行時)のハワイではアメリカには敵愾心は無いと記している。この本の刊行年、1960年であるから立州一年後のハワイにあっても本土から見てアメリカ帰属に関する疑念があったかもしれない。

アーウィンの息子が日本語学校に通えたのは、この母親のKama’aina 精神からか、あるいは父親の日本に対する関心というか疑念からか。いずれにしても激情型(喧嘩のエピソードが多い)の父親とこの母親はずいぶんと対照的に思える。

自分もこの少年がその後どのような路を歩まれたのか興味津々だが、本田緑川さんも「この一家がホノルルに健在であるかどうかは、一度きりの訪問だったから知る由もない」とされている。恐らく1960年、ハワイ立州後まではハワイに居られたと思うが。

ずいぶんと横道にそれてしまった。

著者、本田緑川さんは作詞家としても高名で、以下の浪曲、歌謡曲の作詞をされている。その当時の回想も興味深い。ご存知の方多いかもしれない。

「ハワイ渡航まくら」

「AJA行進曲」(3)

「いとしのかどで」(3)

「アロハ音頭」

1949年に小唄勝太郎さん来布を切っ掛けに作詞、作曲した福島正二が手を入れられた作品とのこと。なるべくハワイ語を組み込んで欲しいとの依頼だったそうだ。

(1)「Presstime in Paradise: The Life and Times of The Honolulu Advertiser, 1856-1995」George Chaplin著,University of Hawaii Press,1998

(2)「Honor Killing:How the infamous “Massie affair” Transformed Hawai’i」Davide E.Stannard 著,Viking (Penguin Group) ,2005 (ペーパーバック版、電子書籍版では、サブタイトルがRace, Rape, and Clarence Darrow’s Spectacular Last Caseに変更された。ほかにも差異が有るかもしれない。),PP.220-222

(3)Hawaii Shochiku OrchestraのCD「Paradise Honolulu」に収められている。

その他、同じく作詞家として活躍した尾崎無音さん、作曲家フランシス座波さんについての記述もある。